【相模原殺傷事件】「彼ら(障害者)は人ではない」植松容疑者の主張と差別意識

戦後最悪の死傷者を出した相模原殺傷事件。この事件は、現代社会に対して障害者差別問題を突きつけたまま、明日26日で丸2年を迎えます。

 

 

事件の主犯である植松容疑者は、事件後一貫して「彼らは人間ではないから殺人ではない」と自らの犯行を正当化していますが、この事件は日本社会に対してどんな問題を提起したのか、そろそろ真剣に考えなければならない時期が訪れたんじゃないかなと私は考えています。

一貫した植松容疑者の主張

決して植松容疑者を擁護するわけではありませんが、容疑者の主張には他の殺人事件とは意味の異なる一貫性があり、実際に「意思疎通のできない障害者」だけを選別して殺していったように、並ならぬ固い意志があったことは容易に想像できます。

それだけの意志があったからこそ、あれだけの事件を起こしたとも言えるのですが、恐らくは今後も植松容疑者の主張は変わらないものとみていいでしょう。

さて植松容疑者の場合、自分なりに障害者問題を解決しようと「殺人」という行動に打って出たわけですが、法治国家である日本おいてこの行為は当然許されるべきものではありません。

ここでもう一度、植松容疑者の主張を振り返ってみましょう。

 

「(意志疎通のできない)障害者は人間ではないから殺人ではない」

 

これは一言で言うならば差別です。それも、人間の誰もが持ち合わせているようなごくごく自然な思考です。

植松容疑者の場合、その対象が障害者に向いただけの事であり、私も含め、大なり小なり人間は何かしらの差別心を抱いているのですから、容疑者の行為が正しいか間違っているかはさておき、この思考に関してのみに言えば、そう責めたてるべき問題ではありません。

そう、人間というものは誰もが利己主義のもと社会活動を行っているからです。

 

差別はあって然るべき現象

そんなことから、人間が人間として生きる以上、差別はあって然るべきだと私は思います。

差別というよりは区別という言葉の方が相応しいかもしれませんが、人間にはそれぞれに個性がある以上、分け隔てる部分はきちんと分けてあげないと各々の個性が殺されてしまうわけですから。

ただ、問題なのはその差別が倫理、道徳的に正しいものかどうなのかということです。

例えば電車に乗った際、私は目の前に年寄りが来ると決まって席を譲るのですが、どうして席を譲るのかというと、

 

「年寄りは自分よりも弱い」

 

という差別心があるからです。

恐らく、多くの人はこの「年寄りに席を譲る行為」については「良い行為」として認識していると思いますが、そんな良い行為の根底にも差別というものは少なからず存在するわけでして、となれば

 

差別=害悪

 

とは一概に言えなくなりますよね?

要するに、現状のように「差別は良くない!!」と「差別」という言葉だけを切り取るのではなく、差別意識から生じる行為や行動、意識の方にもっと目を向けるべきだと思うんです。

そう、差別自体は何ら悪いことではないのですから。

 

障害者に対する差別意識

ところで、障害者に対しては差別意識は持つべきかというと、私個人としては大いに持つべきだと考えています。

いわゆる健常者と比較した場合、障害者は何かしらのハンデキャップを背負っているわけですから、社会生活を営む上では嫌が応にも苦労する場面が出てきてしまいます。

例えば足が不自由な人なら階段の上り下りだけでも大変な苦労をするでしょうし、目が不自由な人なら外出するだけでも苦労します。

 

 

ここで障害者を障害者として「正しく」差別してあげないと、彼らが健全な生活を送ることはまず不可能ではないでしょうか?

例えば前から目の不自由な人が歩いてきたら、歩行の邪魔にならないよう道を譲るとか、年寄りに席を譲ると同じような行為を取らなければ、お互いに衝突をして不快な思いをするわけですし、衝突は別な火種を生む原因にもなりかねません。

つまり、健常者と障害者の双方が不快な思いをせず、同じ社会で健全な生活を営もうとするならば、繰り返すようですが差別はあって然るべきもの、ということ。その差別心の在り方を問わなければならないんです。

 

単に「障害」の文字だけで線引きしてはいけない

さて、植松容疑者は「意思疎通ができない重度の知的障害者」ばかりを狙って殺害を企てました。

これは容疑者の「意思疎通できない障害者は人間ではない」という、間違った差別意識があっての非人道的行為であり、決して許されるべきものではありません。

なぜならば、この世に生を受けた以上、どんな形であっても人は人だからです。

仮に何かしらの欠陥があったとしても、それは単に程度の違いです。欠陥というと聞こえは悪いので言葉を変えますが、それは誰もが抱えている人間の特性。何でもかんでも完璧な状態で生きる人間がいないのが何よりの証拠ですし、もし自分は「何でもできる」と言う人がいるならば、それは慢心以外の何物でもないことを肝に銘じておくべきです。

そして、この特性は人生において負の方向に向いたもの=障害なのかどうなのか、この線引きが障害者差別を生じさせているわけなんですが、この線引きが一部の人間の都合の良いように引かれていることが一番危険な事なんです。

仮に、五体満足で五感すべてが正常に機能している人間以外は人間でないと線引きするとして、今度はその人間の中で別な線引きが行われるはずです。人間が利己主義で差別意識を持つ以上は。

そしてその別な線引きとは何なのか、例えばそれはIQであったり、運動能力であったりすると思うんですが、人間自らが線引きをするとそのハードルはどんどんと高くなり、最終的には人間が存在できない社会になるんじゃないでしょうか?

 

 

IQにしても平均以下の人間全てを切り捨てたら、必然的に平均値が上がるわけですし、極論、五体満足な人間であっても「100mを10秒以下で走れなかったら障害」だなんて線引きされたらどうなりますか? もう無茶苦茶ですよね?

線引き。これもまた差別意識の一つですが、人間が人間の都合で線引きすることは、それこそ「正しい認識」の上に成り立たなければなりません。

単なる障害の有無にスポットを当てるのではなく、すべての人間を人間として捉え、それぞれに適正な線引きを施すことが、今の社会に突きつけられている一番の問題のように考えています。

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Posted by チャーリー