現代人が生き辛さを感じるようになった原因

最近は姑が小言を垂れるかのごとく耳障りなニュースをやたらと目にする機会が増えましたが、恐らく、多くの人はそんなニュースを知ると

「世知辛い世の中になった」

と口を揃えて言うでしょう。

 

 

かくいう私もその一人なんですが、どうしてこんな社会になってしまったのか、私の愚痴(笑)も入るかもしれませんが、ぶっちゃけた話をしてみたいと思います。

自己責任論により生じる弊害

世知辛い社会になった一番の原因はこの自己責任という言葉ではないでしょうか。

近年は事あるたびに「そうなったのは自己責任だから〜」と簡単に物事を片付ける風潮がありますが、全てを自己責任だけで片付けるのは大きな間違いです。

例えば障害を抱えた人がいるとしましょう。そんな人に

「お前の障害は自己責任だから」

と言えますか?

自身に明らかな過失があって障害を負ってしまったなら話は変わりますが、先天的な障害を持って生まれた人に自己責任論を押し付けるなんて鬼畜の所業だと思いませんか?

極論になるかもしれませんが、好き好んで障害者になった人なんかいないんですから、これは詭弁もいいところです。

また、その先天的な障害を持つ人に対しても

「お前が障害者になったのは親の自己責任」

と話す人もいるわけですが、そう強弁すること自体が「責任逃れ」になっています。

なぜ責任逃れなのかと言いますと、人間が本来持つべきである対人関係=コミュニケーションを「面倒くさいから」と真っ向から拒否しているわけなんです、この言葉を使いたがる人は。

 

 

要するに、障害者のように社会生活に支援が必要な人間より、自分にとって都合の良い人間だけを選り好みして付き合った方が楽、ということなんです。

無論、これは障害者だけに限った話ではありませんが、自分の手を煩わす必要のない場所=自己責任が不要な独自のコミュニティに属することで、自己責任を問われずに済むよう世渡りしているだけなんですよね。

そして、この大きな矛盾に気づいている自己責任肯定派の人はほとんど存在しません。自己責任という聞こえの良い言葉を盾にし、腫れ物には触らないで済むといった意識しか持っていないんです。

腫れ物には触れたくない意識。つまりはこれこそが差別意識そのものであり、自己責任論が強まるほど差別問題を助長させているのが、この自己責任論の一番大きな弊害だと私は考えています。

 

衝突を招く独自のコミュニティ

正常に、そして倫理的に機能しているコミュニティならば他のコミュニティと衝突することはありませんが、日本には「島国文化」が古くから根付いており、残念ながら正常に機能しているコミュニティは少数のような気がします。

こればかりは「お国柄」の問題なので仕方ないのかもしれませんが、コミュニティの意図にそぐわないという理由だけで「厄介者」のレッテルを貼られ、いわゆる村八分にされる話は吐き棄てるほどあります。いわゆる学校での「いじめ」なんかはその典型でしょう。

 

 

「剛に入りては郷に従え」との諺はありますが、この言葉が通用するのは精神的に成熟されたコミュニティだけ。精神的にも文化的にも成熟されてないコミュニティが多数派かつ決定権を握る現代の日本社会に限って言えば、「朱に交われば赤くなる」の諺の方がしっくりくるんじゃないでしょうか。もちろん悪い意味の方で、ですが。

 

差別意識と衝突との負のスパイラル

自己責任論が強まり差別意識を持ったコミュニティが生まれると、余計に面倒な衝突が起こります。なぜならば、今度は差別される側がそれに対抗しうる大きな拳を振りかざすからです。

こんな滋養たいなると水掛け論しかできず、双方の間に大きな壁が立ち塞がることになるでしょう。

かといって何から何まで差別するなというのも無理な話かもしれませんが、成熟されたコミュニティ同士であれば、双方の立場を尊重し合うといった「良心の線引き」ができるわけでして、そうすれば差別が生じずに建設的な話が進むはずです。

お互いの立場を尊重する精神。実は少し前の日本にはこの精神が残っていました。

うまく言葉では言い表せませんが、それは譲り合いの精神であったり、謙虚な気持ちであったり、思いやりであったり、人間の良心が基礎となって自然と振る舞えるような精神とでも言うのでしょうか、現代の日本社会にはこの「良心」が圧倒的に不足している気がしてならないんです。

 

無責任な自己責任論者が他者を抑圧するが故の社会現象

さて、ここで人身事故なり自殺がニュースになった際、SNSでつぶやかれる言葉を見てください。

その多くは

「自殺するなら誰にも迷惑かけずに死ね」

「自殺に追い込まれたのは自己責任」

という言葉で溢れかえっています。

ここでも自己責任という言葉がよく使われるのですが、そもそも人間なんてものは、大なり小なり他人に迷惑をかけながら生きているもの。迷惑というと語弊があるので言葉を変えますが、何かしらの援助なり協力等を得ながら支え合って生きているんです。

その大原則すら忘れて全て自己責任という言葉で片付けてしまっていいものなんでしょうか?

「自分は誰の迷惑にもなっていない」「誰の手助けもなく一人で生きていける」という人ほど自己責任が強いと思い込んでいるようですが、果たして本当にそうなことが可能なのかを客観的に考えてみてください。

 

給料が貰えるのは仕事があるからじゃないですか?

仕事ができるのは仕事を与えてくれる人がいるからじゃないですか?

白い飯を食えるのは農家がいるからじゃないですか?

蛇口をひねって水が飲めるのはインフラを整備してくれる人がいるからじゃないですか?

 

それでもなお、誰の手助けもなく一人で生きていけると言うならば、どこぞやの無人島でも独りで十分生きていけるはずですけど、実際は違いますよね?

なんというか、世の中が便利になりすぎて「なんでも自分一人でできる」と錯覚する人が増えたせいもあるんでしょう、その錯覚が自己責任という言葉と相成って自己の能力を不当に高く評価する人が増えてしまい、その結果「生き辛さ」を感じるようになったんだと私は考えています。自分で自分の首を絞めているというのにもかかわらず。

 

 

本当は、人間は一人じゃ何もできない弱い生き物です。強くなれるのは、飢えたハイエナ同士が群れる時ぐらいのもんでしょう。

そんな人間が虚勢を張って「自己責任だ!!」なんて滑稽な話じゃないですか?

人間が人間であるために、そして成熟したコミュニティを形成するために必要なものは、この間違った自己責任論を正す必要性があると私は思います。

雑記帳

Posted by チャーリー